最近、彬子女王殿下が書いたエッセイ集を二冊続けて読んだ。最初のエッセイ集では、全ての章の題名が4文字熟語、二冊目では一転して,全ての章の題名が一字。文才のある方だと思った。そのような本を読んでいたときに、中公新書で平安時代前期を取り扱ったものを一冊、平安時代後期を取り扱ったものを一冊読んだ。この本を読んで、初めて知ったのが奈良時代から平安時代前期にかけては政治面では女官が重要な役割を果たしていたことであった。日本の律令制では女性は就くことが予定されている官職があった。そして、その中には、天皇の指示や命令を取り次ぐ官があった。後世のものと比較すると、江戸時代の側用人のような役職である。奈良時代から平安時代前期では、江戸時代のように、将軍と老中等の大臣との接触が側用人によって遮断されかねないということはなかったようで、江戸時代のように側用人政治と言われるようなことはなかったようである。ここで思ったのが、日本の大奥と、中国やイスラム教の帝国での後宮との違いである。中国やイスラム教の帝国では君主の女性を住まわせる場所として後宮があり、後宮には宦官という男子の機能を失った者がいて、事務的なことを担当し、中国の漢王朝、唐王朝、明王朝では宦官が皇帝の信任をバックにして政治の実権を握り、悪政を行ったという記録も残っている。イスラム教の帝国でも、宦官が君主の寵をバックにして政治的実権を握ったこともあるようである。それに対して、日本では、天皇が政治的権力を握っていた奈良時代、平安時代であっても、徳川将軍が政治的権力を握った江戸時代でも宦官により、後宮が運営されたことはない。女性達により、後宮は運営されていた。つまり、日本の場合、後宮の運営能力がある女性達がおり(教育を受けた女性達がいたということである。)、それもあって、宦官というものを生み出す必要はなかった。おそらく、日本ではどの時代であっても教育を受けた女性を必要とする下地があり、それゆえに、つねにある程度の女性達は教育を授けられたということなのであろう。そのような伝統が、彬子女王殿下のような文才を生み出すことになったのであろう。