禁書

最近の中国のニュースで、明王朝最後の皇帝である崇禎帝に関する研究書が発禁処分になったというものがあった。詳細な理由は不明だが、習近平総書記に対する批判が含まれているという判断によるものと考えられているらしい。しかし、明王朝の最盛期を築き上げた英主永楽帝と比較される習近平総書記と明王朝滅亡の際の皇帝である崇禎帝とが同一に論じられるわけがないのに不可思議なことだと思う。崇禎帝が即位した時点の明王朝は、先代、先々代の皇帝時代の悪政で、領土のあちこちで反乱が起こり、満州、今の中国東北部には、後に大帝国を築き上げる清王朝があって、虎視眈々と明王朝攻撃のチャンスをうかがっていた。対清王朝の最前線には、大軍がはりつけられていたものの、清王朝勃興以前に発生した豊臣秀吉の朝鮮出兵に対する援軍のため、精鋭が大量に朝鮮半島に送られていて、十分な状態とはいえなかったし、朝鮮への援軍の際の戦費で、明王朝の財政は火の車となっていた。それにもかかわらず、崇禎帝の先代、先々代は贅沢な暮らしをしたり、あるいは、信用する宦官に全ての政務を委ね、宦官が悪政をしき、民衆が塗炭の苦しみに遭っているのに全く無視した生活をしていた。崇禎帝は、即位と同時に先代皇帝が政務を任せていた宦官を処罰して自死させ、その宦官におもねっていた官吏を罷免し、政治の刷新を図った。崇禎帝即位の時には、対清王朝の最前線には名将袁崇煥が駐屯し、清王朝軍としても、おいそれと、最前線を突破することはできない状態であった。袁崇煥は、清王朝初代の君主である太祖ヌルハチを戦死させている名将であり、兵と民に敬愛されている清廉潔白な人物であった。悪政を正し、官吏の賄賂を禁止し、政治の刷新を図った崇禎帝であったが、欠点だったのは、猜疑心が強すぎたことだった。そのため、崇禎帝は、清の謀略にあって、名将袁崇煥の謀反を疑い、処刑してしまい、その他にも、崇禎帝は少しの失敗や噂話程度で、有能と思われる官吏を罷免してしまい、しだいに、民心が離れてしまった。そればかりでなく、悪政の元凶として嫌った宦官を再び重用したりしてしまい、正確な情報が届かなくなってしまった。その結果、官吏の賄賂政治はやむことなく、しまいには、李自成という反乱軍の大将が率いる大順軍(大順というのは、李自成が建国した王朝の名前)が首都北京に近づいているのに、全く崇禎帝には情報が入らず、大順軍が北京に入場してから反乱軍が北京に侵入したことが分かる始末。最後には、官吏や兵を呼ぶために鐘を鳴らしても、誰も集まらず、崇禎帝は宦官1人だけをともにして自殺するしかなかったというものである。それに対して、習近平総書記は、ライバルである李克強前首相を追い払い、行政府を側近で固め、中国共産党の幹部も忠誠心の熱い側近で固め、中国人民解放軍の最高統帥部も習近平総書記に近い人物で固めるという盤石な体制である。中国経済が不動産バブルの崩壊で、陰りが見えようとも、もしかすると、李克強前首相よりも有能ではない人物が首相になろうとも、引き立ててきた側近が予想外のスキャンダル持ちで追放せざるを得ない事態が生じたとしても、その体制は揺るぎもしない。あれ、でも、何か似ていない?