隋-「流星王朝の光芒」を読んで

中公新書から発刊された「隋ー流星王朝の光芒」を読んだ。隋は、中学、高校の世界史の教科書には必ず出てくる中国の王朝であるし、「日出る処の天子、日没する処の天子」から始まる文書を持って、日本から外交使節が派遣された遣隋使のことは日本史の教科書にも出てくる。しかしながら、隋は、折角、南北に分かれていた大陸中国を統一しながらわずか2代40年足らずで滅亡してしまったため、独立して扱われるよりも、隋の後に興った唐王朝と一緒に「隋唐帝国」と並び称されることが多い。その隋を新書1冊で扱っているので、どのような内容かと思い、読んでみたが、予想以上に面白かった。感覚的には、全体の4分の1程度は隋の前史である南北朝時代の北朝末のことが記載されているが、この部分が思ったよりも整理されていて理解しやすかった。私は、隋の初代皇帝である文帝は、前代の王朝である北周を簡単に乗っ取ったと思っていたが、実際には、かなり危うい道を渡っていて、一つ誤れば、身の破滅であったことが分かったし、教科書の記載でも、第2代皇帝の煬帝の時代は、モンゴル高原を支配していた突厥との関係でいうと隋が優位であったのに、次の唐の初期には突厥優位になるということが教科書的にはよく分からなかったことが、この本を読むとその点も理解できた。突厥の国家体制が、分権的で、突厥全体を統括するトップの可汗の下に、それぞれの地区を担当する可汗がいて、それが日本の室町時代の守護大名のようにかなり独立性が強く、その点を隋に弱点として突かれ、トップの可汗が強力な統制を敷けず、外交関係が隋優位に推移していったことを教えてくれる内容であった。そして、私には、何よりも、史上最悪の暴君とされている煬帝が、実は、先見性に富んだ名君の資質を有した人物であり、筆者が、やや同情的に、煬帝の持つ名君となる資質が、ある意味悲劇的な結末を迎えることにつながることを記していたことが考えさせるところであった。最近、唐の第2代皇帝で、史上希な名君とされる太宗の事績を記載した「貞観政要」がリーダーの読むべき本として掲げられることも出てきたように思うが、この本の筆者は実は煬帝と唐の太宗の資質は似通っていることを指摘している。わずかな時代のずれと、反面教師とするか、自らの鑑とするかは別として、学ぶべき相手の有無が、一生を左右することがある。それも、考えさせられるところであった。現代でも、時代の底流に流れるものを感じ取れるか否かによって、組織の盛衰が決定づけることがある。それは、組織のリーダーだけではなく、その構成員も同じかもしれない。