関西は歴史的名所が多い。そのため、それ以外の土地に住んでいる人からすると、そのような名所に数多く訪れているかのように思われて、聞かれることが多いが、案外、近くにいると行っていないものである。今年になって、初めて、滋賀県の三井寺、奈良県の薬師寺、唐招提寺に行った。昨年には、初めて黄檗宗萬福寺に行った。三井寺は、桜の季節に行ったため、外国からの観光客も多く、大変な人混みであったが、薬師寺、唐招提寺、萬福寺ではそれほどでもなく、ゆっくりと回ることができた。そして、そこここに、重要文化財とか国宝とかいう名称が冠される仏像が、手を伸ばせば届くところに安置されていることに改めて驚いた。まあ、仏様を盗もうなどという罰当たりなことを考える者はいないだろうと思うと、過日、善光寺の像を盗もうとして捕まった者がいたくらいだから、油断はできない。ただ、それにしても、重要文化財や国宝になるような仏像の保管の努力や、何度も火災に遭いながら、寺を再建してきたエネルギーには驚く。一方で、幾多の戦乱がありながら、古い仏像を徹底的に破壊したり、再建できないように建物やその土地を徹底的に破壊するということをしなかった日本人の先祖にも驚く。古代ローマは、通商国家カルタゴを滅ぼしたとき、都市一つを徹底的に破壊しただけでなく、土地に大量の塩を撒いて再び立ち上がることができないようにした。中国でも、隋や唐の時代の建造物を見たければ日本に来て、仏閣を見るしかない。北京にある故宮にしても、清朝時代の建物であり、前代の明朝時代の建物はない。おそらく、日本人には、そこまで敵を憎むという習慣やエネルギーがなかったのか、あるいは、もったいないという気持ちが先に立ったのかもしれない。しかし、例外はあるものである。私が例外ではないかと思っているのは、徳川氏の大坂城に対する対応である。大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼした徳川氏は、豊臣秀吉創建になる大坂城を埋め、新たに徳川氏の大坂城を建設した。この徳川氏の対応は、家康の考えか、2代将軍秀忠の考えによるものか分からないが、豊臣氏の復活を許さないという執念のようなものを感じる。一方で、真田幸村の子どもの中には、伊達政宗の家臣に匿われて天寿を全うした者もいるという。何となく、そこに差を感じてしまう。大河ドラマの「どうする家康」では、そのあたりをどのように描くのか、関心を持っている。