中国の歴史2

「その知や及ぶべし、その愚や及ぶべからず」という一文がある。何かの本で読んだのか、誰かに聞いたのか思い出せないが、内容は、中国の春秋戦国時代のある国で、有能な君主が統治している間は特に目立つことのなかった家臣が、暗愚な君主が即位したため、政治が乱れ、国の前途に見切りをつけた有能な家臣たちが他国に逃げていく中、目立つことのなかった家臣が暗愚な君主を諫め、乱れた政治の立て直しに力を尽くした様子について、評価したものであったという記憶である。最終的に国が滅んだのか立て直しされたのかは定かではないが、まさに国が滅ぼうとしているとき、逃げ出すことなく国の立て直しに奮闘したことを「その愚や及ぶべからず」と評価したものであろう。マイナスの評価ではなく、プラスの評価をしたもので、いわば、滅びの美学かもしれない。明朝の第三代皇帝永楽帝は、初代皇帝の後を継いだ二代皇帝の甥を武力で討ち取り、実力で皇帝になった。その時、二代皇帝の臣下として名声の高かった人物に、即位の歳に発する文書の作成を辞を低くして頼んだところ、「燕賊、位を奪えり」と書いた文書を投げつけられた。それに激怒した永楽帝は、その人物はもとより、妻子、父母など血のつながりのある者、教え子など全ての人々を処刑した、と伝えられる。これを「永楽のつるまくり」と言うらしい。その結果、永楽帝の意向に沿わない意見を言うものはなくなった、ということである。ところで、明朝最後の皇帝崇禎帝は、首都北京を反乱軍に攻められ、陥落した際自殺しているが、その時、そばにいた者はたった一人で、臣下たちに集まるように鐘を鳴らしても応じる者は一人もいなかったと伝えられる。そればかりか、崇禎帝に重用されていた臣下の一人は、かくまってもらおうと思ってやってきた崇禎帝の子供を追い返したとも伝えられる。因果応報という言葉は使いたくないが、結局、私には、君主にとって耳の痛いことを述べる臣下は遠ざけられるだけでなく殺されるということで、誰も彼もが口をつぐむのが有利という風潮になった結果としか思えない。過日終了した中国共産党大会の人事では、習近平総書記の意向に忠実なイエスマンばかりが重用されたという評判らしい。仮にその評判通りだとすると、習近平総書記一代はよくても、その後につけが回ってくることは確実である。もう一度、中国の歴史に学ぶべきだろう。